高齢者が元気、健康でいるためには、「きょうよう」と「きょういく」が重要といわれる。今日すべき用事「今日用」と、今日行くべき所「今日行く」である。第1巻で59歳だった小兵衛も、本作では67歳になっている。トラブルに巻き込まれ、これを解決する事は、老いを迎えた小兵衛にとって、生きることの目的だったに違いない。「世の中には、こうした面倒なことが、よくあるものじゃ。そこがまた、おもしろくないこともない。」と言っている。秋山小兵衛と同じく辻道場の高弟であった、神谷新左衛門老人も、「わしにも何かやらせてくれ。毎日、退屈で、仕様が無いのじゃ。」と言っている。
最終巻の表題は「浮沈」。隆盛した田沼意次の時代も終わりを迎えつつある。浮き沈みは世の中の常。作者の池波正太郎は、第16巻「浮沈」刊行の翌年である1990年(平成2年)に、67歳で亡くなった。本作品では、登場人物たちの余命についても述べている。この巻を最後にしよう、と思っていたのだと思う。
その後の小兵衛は、鐘ヶ淵の隠宅で、ゆっくりとした時間を過ごしながら、93歳まで生きたという。本作では、親子が多く出てくる。権力者としての父(田沼意次)と息子(田沼意知)。剣客としての父(山崎勘助)と息子(山崎勘之助)。金貸し業としての父(平松多四郎)と息子(平松伊太郎)。形は異なるけれど、次の世代へ何かを引き継ごうとする思いが、感じられるようだ。
ところで、御用聞き・四谷の弥七については、同じ年代であることもあって、勝手ながら親近感を持っている。傘屋の徳治郎(最近では彼方が活躍している?)という部下を持つ、中間管理職のような立場だ。小兵衛の「どうじゃ、この一件、何か、におわないか(怪しくないか)・・・?」という問いにも「においますでございますね。」との返事。また、小兵衛が26年ぶりに見かけた門弟が、まるで別人のようになってしまったことに、衝撃を受けたときも、「お前、なんと見る?」と聞かれて、「人間というものは、辻褄(つじつま)の合わねえ生きものでございますから」と、返している。あまり的を射た回答では無いけれど、双方共になぜか納得してしまうし、ストーリーはとんとん、と進んでいくのが面白い。
第16巻が最後だけれども、池波先生は、いくつかの番外編も残されている。読むのは少し後にしよう。小兵衛と同じような年齢になったとき、「きょうよう」の一つの楽しみとして、取っておきたい。