坂の上の雲 八 司馬遼太郎

日露戦争を描いた長編小説も、この第8巻で最終章を迎える。ロシア海軍のロジェストウェンスキー中将が率いるバルチック艦隊と、東郷平八郎長官による連合艦隊が、対馬沖で激突する。日本海軍の圧勝となるのだが、なぜそのような結果になったかということを、当時では斬新であった海上戦術論の採用を中心に丁寧に解説してくれる。

和泉という小型巡洋艦がバルチック艦隊に初めて遭遇するが、危険を顧みずにその艦隊に付き添うように近づき、その情報を連合艦隊へ詳細にわたって報告し得たということは、日本の勝利に大きな影響があった、と言える。今でこそ「情報社会」として、敵軍に関する情報と言えば、最も厳重に管理されるべきものであるが、当時の、特にロシア海軍(ロジェストウェンスキー提督)にとっては、「小さな巡洋艦が近づいても、無視せよ」という態度であったようだ。

ちょっと面白い場面もあり、例えば、この和泉が、バルチック艦隊に、そうとは気がつかずに近づく、陸軍の輸送船を見つける。この輸送船「鹿児島丸」は、豪快に海を割って走行するバルチック艦隊を、日本の連合艦隊だと勘違いし、全員が甲板に出て「バンザイ、バンザイ」と叫んで接近しようとする。「あれは敵だ、逃げろ」とメガホンで叫んだり、汽笛を鳴らしたりして、やっと気がついた輸送船は飛ぶように逃げ去った、という。

また、戦闘準備にあたって、日本軍では常に清潔な服を着用する習慣があったことに対し、ロシア軍は最も汚れた服を着る、という記載があった。特に今回の連合艦隊の日本水兵たちは、風呂に入って身を清め、艦内まで消毒した。戦闘中にけがをしたときに、そこから化膿したり、傷が悪化しないための措置でもある、という。ロシア軍は長期間にわたって後悔を続けてきており、しかも粗悪な石炭を満載していたため、艦内は大変な状態であったことだと思う。

戦争が終わる。旗艦であった戦艦「三笠」が、佐世保港内で、内部に積載した火薬事故と思われる原因による爆発で、339人もの人たちが亡くなってしまう。日本海海戦での日本海軍の死者は100数人であった。なんとも愚劣な管理だ。この事故を、戦艦「三笠」に戦闘中にあまりにも多くの恩寵を与えすぎた天が、その差引勘定をせまろうとする予兆のようなものだった、という表現には、奥深いものを感じた。

最後の一章は「雨の坂」。兄の秋山古好は、その後に陸軍大将になり、予備軍として退役後は、地元の松山の中学校の校長になる。71才まで生きた、という。弟の秋山真之は、49才でなくなる。彼には優れた文才があり、その後の日本海軍などの文章の大いなる参考になったようだ。秋山真之が、そうとは名乗らずに、今は亡き正岡子規の自宅の近くを訊ね、墓前に参る。雨になり、雨の中で緑が僅かに煙りたち、彼があの日に三笠から望んだ日本海の海原を想像する。

文庫版には、単行本のそれぞれの巻に記載されていたあとがきが、この最後の8巻にまとめて掲載れている。はじめて題名の意味が明確になった。「(この明治という無我夢中に明るい時代の)楽天家たちは、そのような時代の体質として、前をのみ見つめながあるく。のぼってゆく坂の上の雲の青い天にもしいちだの白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくだろう。」

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