「剣客商売」秋山大治郎の「橋場の道場」を訪ねて

さて。池波正太郎の「剣客商売」の主人公(の一人)、秋山大治郎。作品中で、かれの道場が置かれているのが「橋場」という場所。今回は、「橋場の道場」を、少し詳しく、訪れてみたい。一番の手掛かりは、剣客商売の第1巻「荒川が大川(隅田川)に変わって、その流れを転じようとする浅草の外れの、真崎稲荷明神社に近い木立の中へ、秋山大治郎が無外流の剣術道場をかまえてから、そろそろ半年になろうか。」という文章だ。週末に自転車で現地を巡ってみた。

東京都台東区、橋場一丁目から橋場二丁目を巡ってみる。国会図書館の「錦絵で楽しむ江戸の名所」によれば、「隅田川西岸の、今戸橋から鐘ヶ淵あたりまでの一帯」であり、「橋場」という地名は、『義経記ぎけいき』『源平盛衰記』に浮き橋を架けたと記載があり、それが由来とのこと。「隅田川の渡し場があったことから、橋場という地名が残っている」という説もある。

上の地図は、白髭橋(しらひげばし)に近い案内板の一角の拡大図。秋山小兵衛の隠宅「鐘ヶ淵(かねがふち)」と、秋山大治郎の道場がある「橋場(はしば)」の距離感が把握できるので、ちょっと面白い。橋場の料亭「不二楼」も、白髭橋の近くにあったのだろうか。

さて。上の写真は、隅田川右岸(荒川区側)の堤防から、南を向いて撮影したもの。左手に白髭橋が見える。正面のマンション群が、橋場一丁目から橋場二丁目のあたり。右手の森に囲まれたあたりに「石浜神社」があって、その中に「真先稲荷神社」があり、これが作品中の「真崎稲荷明神社に近い木立の中」にあるという、大治郎の道場へと、やっとつながる。

残念ながら(と言ってはいけないけれど)、秋山大治郎の道場があった(と思われる)場所には、現在ではシンボル的な大きな丸タンクの水素ステーションをはじめとする、東京ガスの広大な敷地になっている。剣客商売で描写されるような長閑な風景は、今では残念ながらほとんど見られない。

江戸時代が終わって、明治時代がやってくると、東京では急速な工業化が始まる。富国強兵、殖産興業、文明開花。南千住には隅田川の水運を利用する大規模な工場が次々と建設された。明治26年(1893年)に「東京瓦斯千住工場」が建設された。墨田川を利用して、ガスの原料になる石炭を運び込むのには、好都合な場所だった。

今では広々としたマンションなどの住宅地が広がる千住の界隈だけれど、明治時代の急速な工業化による変化、大正時代の関東大震災による大被害、昭和を通じた隅田川の工業廃水問題など、それぞれの時代を経て、今の景色に繋がったのだろう。

さて、せっかくなので、石浜神社を参拝してみよう。神社のホームページによれば、「当社は、聖武天皇の神亀元年(724)9月11日、勅願によって鎮座され、以来1296年の歴史を持っています」とのこと。

真先稲荷神社は、室町時代に建立され、当時の千葉氏や宇都宮氏などの関東有力武将からの信仰も厚く、「戦場に一番へと駆けつける」との意味(まっさき=真崎)から「真崎稲荷」と名付けられたそうな。大正時代に石浜神社へ併合されて、現在に続いている。

右側に併設されているのが真崎稲荷神社

剣客商売の14巻「浪人・波川周蔵」に、以下の描写がある。「小兵衛は大治郎宅へ行くと、孫の小太郎を抱き、真崎稲荷のあたりまで出て行き、大川(隅田川)の景観をながめつつ、時をすごすことが多い。」コロナウイルス影響下で、遠出はできないけれど、夕日が高層ビルの影を延ばす白髭橋に近い隅田川テラスで、小さな子供の手を引いて歩く年配の方の後ろ姿が、小兵衛のイメージに重なった。

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