フォルトナの瞳 百田尚樹

フォルトナの瞳。映画にもなったようだ。中学一年生の息子が、学校の図書館から借りてきて、何気なく貸してくれたものだ。この作者の作品は、映画も含めて、見たことがある。中学一年生でも、このような小説を読むのだなぁ、と、感心した。

思い返すと、自分が中学生のころは、ほとんど本を読まなかった気がする。学校から、例えば夏休みの宿題にと、感想文を求められる度に、何か面倒くさい気持ちになった気がする。学校なり親なりに、これを読め!と云われると、読みたくなくなるものだ。がっは、そこを理解していないのだろう。悪意がないだけに、始末が悪い。

フォルトナとは、ギリシア語神話だかの、未来を予言できる女神像だ。何家のきっかけに、他人が近々、死んでしまうことを、その日との体の一部が透明になることから、予期できるようになってしまう主人公。本人の葛藤、その廻りの滋味だけど魅力的なの人たち、横浜、川崎、蒲田といった、馴染みのある風景が、グングンと物語野中には読み手を引き込んでいく。

広い広い公園、石畳の広場。足元に落ちている小石を拾い上げ、思い切り投げてみれば、その石を再び拾い上げることは、不可能だ。人生も、人は、一日で7,000回もの選択をしている、という。バタフライ交換。北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで竜巻がおこる、という。

何がきっかけになるかは分からないけれど、その時々で、あまり後悔の無いように、自分のスタイルで生きていくことの、かけがえの無さを気づかせてくれる作品。先日に鑑賞した映画、「天気の子」を思い出した。犠牲、という言葉が、両方に通じる概念として、浮かんできた。

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